あらすじ
1980年東京、フミエ、アヤ、コウは父親なき後もそれなりに暮らしている。
ある日、コウと連絡が取れなくなる。
洞窟を訪れ、そこに現れたヘビに出会い、姿を変えられたコウ。
2019年東京、タナベ、ナツミはそれなりに暮らしている。
連絡の取れなくなっていたヨシカワが突然現れ、山に行こうと言い出すが。
40年前、40年後の世界が同時進行する、同時多発SF郷愁ロードームービー演劇。
出演
天明留理子*
新田佑梨*
黒澤多生*
西風生子*
南風盛もえ*
山村麻由美*
藤家矢麻刀
*=青年団
空間設計:渡辺瑞帆*
照明:緒方稔記(黒猿)
音響デザイン:SKANK/スカンク(Nibroll)
舞台監督:黒澤多生*
衣装:坊薗初菜*
宣伝美術:出版社さりげなく
制作:河野遥(ヌトミック)
制作補佐:赤刎千久子*
総合プロデューサー:平田オリザ
技術協力:大池容子(アゴラ企画)
制作協力:木元太郎(アゴラ企画)
企画制作:宮﨑企画 /(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催:宮﨑企画
協力:黒猿 ヌトミック Nibroll (有)レトル
当日パンフレットの言葉
「まなざすことの逆流」
社会的な規範に基づいて距離を規定されることがわたしたちの生活では当たり前になり、見えないことよりも、見えることを重要視する空気が社会には蔓延している。また、距離の遠さを前提とした演劇も生まれた。わたしも戯曲を「読む」ことが演出を行っている状態になっているのではないかと仮説を立てている。上演に対しての意味合いは日々強くなっている。きっとそれはこの上演がはじまる頃から終わる頃まで、それ以降もつづく。人が集まる意味、演劇の支持体とはなにかが真っ向から問われている。リスクを負ってまでわたしたちは集まる必要があるのか。演劇の支持体はまなざしであると仮定する。集まること、まなざしの時代は終わったと言われている中で、まなざし、対話する演劇の意味。まなざすことは、他者と出会うこと、自身を知覚し直すことだ。決められた距離に対抗しうるものが、知覚なのだとしたら、思うこと、祈りはどんな距離をも飛び越えてきた。記憶される時間も場所も、人間が図ることのどれもが正確ではない。その不正確さにこそ見るべき点があるのではないか。物の時代に変化していく今だからこそ、まなざし合うこと、人と人との関係に見るべきところはあるはずだ。
観劇の瞬間だけでも忘我したい、現実を忘れたいという考えもあると思う。社会的にも更にその意味合いは日々強まっていると思う。自分勝手なのかもしれないけど、わたしは横浜を歩いた時に地下道に眠っているホームレスの方のことも、時々夢で見る遠い他人のことも、見ないことにすることがどうしても難しそうだ。みなさんがここに集まっていることで、人と人との関係がここに生まれていて、そのことが肯定されるような演劇になるといいと思っている。わたしたちはここにいるまなざし、まなざされている行為のために、今日も上演をする。あなたがいないと上演はなりたっていない。
今日はご来場いただきありがとうございます。日常へ帰ってもまなざし続けてください。見えることは、損をしている訳ではないと少なくともわたしは思っています。演劇の支持体は「まなざす」ことにあります。
宮﨑玲奈2021.3.10
『忘れる滝の家』劇評 (飛田ニケ)
飛田ニケさんによる劇評を下記URLからお読みいただけます。
https://drive.google.com/file/d/1RaGAsUi1_CJVBS8SMblIS5kNBenJLDdM/view?usp=sharing